2022.2.5 石原慎太郎さんが亡くなった

■TV「ざわつく金曜日」

 石原慎太郎が死んだ。昭和7年組だ。誕生日前で89歳だった。自分の親父は先日、90を迎えた。同級生だからか、慎太郎と親父がダブル。そして、慎太郎と良純の対談映像を見た。ダブる。良純や一茂、ちさ子の慎太郎像を話す場面がとても面白かった。良純が「自分の父親がやってくれなかったことをやってやろうとする気持ちを持ちつつ、同じことをしている自分にびっくりする」って言ってた。(自分も同じだ、今日は長男の誕生日。)

石原慎太郎の功罪。

 功罪を遥かに越えて、スーパースター、巨人だった、と言えるのではないか。書いた本で大衆が熱狂、本人が表舞台に立ってスターになった。慎太郎カットと言われ、そのスタイルをみんながまねした。本を映画化し、弟を主演に据えて、もう一つのスーパースターを作り上げた。石原兄弟が、日本を熱狂させた。時代を動かした。

■作家から、国会議員へ。

 文才と弁舌、頭脳と強烈な意思と実行力。作家にとどまらず、プロディーサー、タレント、そして、政治の道にも入っていく。気に食わないものに文句を言い、相手が動かないんだったら、自分がやってやる、と日本社会を動かそうとした。大統領制だったら、ぴったりだったのかもしれないが、日本はなまくら議員を自分の子分にして、かわいがらなくてはいけなかった。そんなことできないから、国会の長老たちは、反発した。そんな中、新興勢力を作り、動き回ったが、主流になれずに終わった。

■再び政治の世界に戻る、都知事として。

 国会議員を辞めて国会という場から足を洗ったが、しばらくすると、腑抜けた東京都政治を立て直すと再登場。東京都は、保守が弱く、美濃部都政は、赤字を垂れ流していた。弱者を救う、みんな一律に、ということで、名門都立高校は魅力を失い、私立高校の時代になっていた。

 石原の人気は絶大だった。国政と違って、知事は、首長と言われ、大統領制に近いものがあり、ぴったりだったのだろう。トップの号令の下、東京都政を、率先して改革していった。①都政の財政を黒字化させた。②都立高校の競争化を打ち出し、名門都立高校が徐々に復権していく。③東京マラソンを始めると計画(イベントの創出)。④東京オリンピックを計画(日本の再復興のきっかけを作る)。⑤政府が腑抜けて、尖閣諸島を中国に奪われようとしているのにも何も動かない、ので、政府を飛び越えて、尖閣諸島を東京都が買い取る、と宣言。尖閣は、東京都が守る!台湾もまもる、中国にしっかりと対峙する、と宣言。⑥バブルがはじけて銀行が融資を出し渋るため、東京の中小企業が瀕死状態になっているが、政府が何もしないということで、東京都が銀行を作って、中小企業を助けると宣言。(新銀行は経営がうまくいかず?借金を東京都が肩代わりした=マイナスの評価?)⑦排ガスをコントロールすると宣言、ディーゼル車を規制する東京ルールを作った。(東京の環境が改善した)

■地方出身の慎太郎、いじめられる。

 北海道から、父の転勤で神奈川県・逗子にやってきた。(逗子小学校)北海道訛りをからかわれ、いじめられたため、その一人を殴った。その帰り、6,7人に待ち伏せされ、ボコボコにやられた。弟がその様子を見ていたのに、助けに来なかったと言って、母に言いつけた。(なんちゅう奴!情けない!言いつける奴、嫌いだ)母は、弟を殴って「家族のピンチに力を使わないとは何事か!」。2歳下の弟とは、それからつるんでよくケンカをした。弟は喧嘩が強かった。

■慎太郎と良純との10年前の会話。

 「この逗子の家はいくつの時に買ったの?なんでこの家だったの?」(良純)。「前の家は、崖の下で日当たりが悪く子供たちが病気ばかりしていた。34歳の時に、子供たちのことを思っていたら、売りに出していたので買ったんだ。」(慎太郎)。「嘘だあ!この大きな家の1/3は長い階段、残りの1/3は、親父のリビング、作業所、寝室、などでいっぱい。小さな子供部屋に4人の子供が入れられたけど、前の家より小さいスペースだった。」(良純)。「本当だよ、子供の為だった。50を過ぎたけど、お前は今でもかわいいよ。」(慎太郎)。「何言ってんだよ。」(良純)。

 「子供のことはどう思ってたの?どう育って欲しいとか、なかったの?放任だった。」(良純)。「そりゃそうさ。子供だろうが、それぞれ違う、感性も違う。なるようになっていくもんだ。」(慎太郎)。「この間、孫を見て、子育ても面白いもんだなあ、って言ってたよね。」(良純)。「ああ、それぞれ違って、面白いなって。子育ても面白いもんだなあって気づいたんだ。」(慎太郎)。「そう言えば、80過ぎの時に「酒も女もない人生なんて、つまらない人生だな」って子供の前で言ったよね。家族にそんなこと言う?」(良純)。「そんなこと、言ったか?そうか。」(慎太郎)

■ざわつくメンバーの回顧録

「親父は勝手な人だった。子守をお願いされて、子供を海岸に連れて行っても、親父は一人で勝手に走り出して行っちゃうんだ。自分は、何も楽しくなかった。でも、自分も(自分の)子供を任されて、ベビーカーを押して走っていた。同じだなあって。子守もしなくちゃいけないが、自分の発散もしたいし、体力作りもしたい。」(良純)「自分はあまり人から褒められないけど、慎太郎さんに褒められたことがあって、印象に残ってる。君は、お父さんと違ういいものをいっぱい持っている。って。うれしかった。」(一茂)「親父は、茂雄さん(長嶋)が自分よりもてるのを知って、悔しがっていた。」(良純)「自分にも言ってた、なんで自分よりも親父(茂雄)の方の付き人の数が多いんだって愚痴ってた。」(一茂)

■死人に鞭打つ、立憲民主党朝日新聞

 立憲民主の副代表が、慎太郎が死んだニュースを見て、ボロクソにヘイトを並び立てていた。ネットで炎上したけど、開き直って、謝りもしなかった。朝日新聞も、天声人語でボロクソに貶めていた。人としてどうなのか。死んだ人は怒らないし、遺体に石投げたり、棒で叩くような行為で、見苦しい。日本人の恥。